OP/雫
ある日、僕は彼に電話をかけた。
トルル・トルル・トルルときっちり3回の呼び出し音の後、
彼の声が聞こえた。
「もしもし」
「誰でしょう?」
「誰って・・・・・・やあひさしぶりだなあ」
彼の声の後ろで子どもたちのはしゃぐ声が聞こえる。
「元気そうだな」
「まあまあだよ」
「So soってことか?」
「Yes , So soさ」
「何か愉しいことはあったか?」
「愉しいことなんて何もないさ」
といって彼は楽しそうに笑った。
「もう二十八だぜ」
と僕はいった。
「ほんとうにねえ。まだ中学校の校庭でサッカーボールを追いかけてた頃と気持ちだけは同じなんだけどな」
「本当に?」
「嘘だよ」
といって彼は笑う。
「もう頭の上から足の指先まですっかりおじさんだよ」
「おじさんにはおじさんの楽しさがあるだろう」
「そうだな。また飲みにいこう。いいBARがある。ジャズも聴ける」
彼の後ろで彼を呼ぶ子どもたちの声がする。
「いいね」
「じゃあまた」
「ああ」
僕は受話器を置いた。
受話器の向こうには確かに彼がいた。
けれどもそれは昔の彼ではなかった。
彼の予感が当たったのだと僕は思った。
「それはもう僕じゃなくてきっと別の人間なんだと思う」
と中学生の頃の彼は言った。
僕の携帯電話がブルルと震えた。
僕は着信音が嫌いなので、携帯電話はいつでも震えるだけだ。
ディスプレイにクライアントの名前が浮かんでいた。
僕の頭の中でカチリというスイッチが切り替わる音が聞こえた。
それは仕事用の僕に変わる音だった。
幼なじみと何気ない話をしているときの僕と、
クライアントと仕事の話をしているときの僕。
その二人の僕は別の人間だ。
人間というのはいくつもの仮面を持っている。
たったひとつの仮面=つまり僕自身の顔で生きることができればいいのにと、
ときどき思うことがある。
その思いは雫となってコップの中に一滴一滴と溜まっていく。
コップの中の液体がいっぱいになって溢れ出す頃、
僕は別の場所へ行きたくなる。
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