OP/頭の中の静寂。
夜になると頭の中に静寂が訪れる。
昼間の喧噪が嘘のように静まりかえる。耳を澄ますと街の音が微かに聞こえる。ビルに当たる風の音、誰かが家路を急いでいる音、路地裏で鳴いている猫の声。そしてグラスの中で氷が溶けて落ち隣り合った氷とぶつかる音。
「なかなか良い感じじゃないか」
天井に昇っていく自分自身の煙草の煙を目で追いながらサイゾウがいった。
「何が?」と僕はBARのカウンターの上にのったグラスの中の液体を眺めながらいった。
「今回の仕事さ」
「そうねえ。お客さんも自分たちが何をやらなければならないのか自覚しているみたいだし」マイカがスクリュー・ドライバーの入ったグラスを唇に当てながらいった。
「何が起こるのか予測できないのがこの仕事の恐ろしいところだよ」
「でもそれが愉しいところでもあるんだろ」
サイゾウが愉しそうに僕の顔を見る。
「愉しいねえ。愉しいのかねえ」と僕はいった。
夜になるとBAR『ガラパゴス』にやってきて、僕たちはその日の<ハンセイ会>を行うことにしている。<ハンセイ会>といっても、ほとんどの場合、ただ酒を飲み、煙草を吸い、たわいのない話をするだけなのだが、この時間は僕たちにとってはとても大切なものだ。もしも誰かが何かで困っていたら、自然にその話が話題となり、この場所でその情報が共有される。同じプロジェクトといっても別々に動いているわけだから、それぞれに出会う問題が異なる。一人で解決できる問題もあるし、誰かの知恵を借りたくなるような問題もある。そうした様々なことがこの小さなBARの中で自然に共有される。もしもこの場所がなかったら、僕たちは大きな海の中で、別々の場所をスタートして同じ目的地を目指している3艘のヨットの上にいるような気分になっていただろう。
精神的に隔離されてしまうことは最も危険なことの一つだ。
隔離されているものを繋ぐのは<会話>しかない。会議室でも<会話>はできるが会議室では業務上の課題解決が最優先で議論されるため、精神的な橋を架けるための<会話>をすることはできない。
「今回のプロジェクト・マネージャーってどんな人?」
マイカはオイル・サーディンを口に運びながら僕に尋ねた。
「ホサカさん?なかなか良い人だよ。本質的なことをちゃんと話すことができる人」
と僕はこたえる。ホサカさんと<金色の液体>を飲んだ時のことを僕は思い出した。一つ一つの言葉に無駄なものが一切なく、足りないものも一切なかった。ときどき頭の良い人と出会うことがある。<頭が良い人>というのは学歴が良いとか、計算に強いとか、多言語を操ることができるという人のことではない。もちろんそういうことができることも大切なことだが、そういうことができる人が必ずしも<頭が良い人>だとは限らない。
「なかなか美人なんだよな。おまえ、もしかして好きになったか?」
サイゾウがニヤニヤしながら右肩で僕の左肩を押す。
「そうだなー。好きになったかなあ」
マイカがグラスをトンとカウンターの上に音を立てて置く。
「『仕事と私生活は分離すること!』。ボスの台詞だけど」
僕とサイゾウは笑って首を振る。
「I Like Her,Not I Love Her」といって僕はグラスの中の液体を喉の奥に流し込む。
「That's Right」とサイゾウは新しい煙草に火をつける。
バーテンダーのタカハシくんは、いつものように白衣に身を包み、静かな笑みをたたえて
僕たちの方を眺めている。彼が天井に設置されている特殊なライトのスポットに入ると白衣がきれいな青に見える。こちらから話しかけない限り、彼が僕たちの会話に加わってくることはない。彼が注意しているものは客のグラスの中の液体である。
「何かお作りしましょうか?」
タカハシくんは僕のグラスが空いてしまったのに気がつく。
「同じものをくださいな」
タカハシくんはコクリとうなずき同じお酒を作り始める。
「どうしてボスは仕事と私生活との分離にこだわっているんだろう?」
僕は以前から気になっていたことをいった。
マイカは口を少しだけとんがらせて眉間に皺を寄せる。
サイゾウは目を瞑る。二人が思考に集中しているときの表情だ。
「昔、社内恋愛で失敗したことがあるとか」とマイカ。
「社内恋愛って顔じゃないけどなあ」とサイゾウ。
「誰が社内恋愛って顔じゃないって?」
後方から聞き覚えのある声がする。振り返るとムスっとした顔をしたボスとニヤニヤ笑っているケイジが立っていた。二人は僕たちを挟むようにカウンターの両端に座った。
<ケイジ、マイカ、僕、サイゾウ、ボス>。
ボスとケイジはバーテンダーのタカハシくんに、
「きれいな飲み物をくれ」という。タカハシくんはコクリとうなずき二人のために新しいグラスを取り出し、<きれいな飲み物>=「新しいビール」を注ぐ。
「とりあえず乾杯ということで」
と僕は左右の人々に向かってグラスを掲げる。
「目標達成に」とケイジ。
「業務上恋愛禁止に」とマイカ
「新しい仕事に」とサイゾウ。
「輝ける未来に」とボス。
「ホサカさんに」と僕。
夜になると頭の中に静寂が訪れる。
仲間たちの笑い声やグラスの中の氷の音はその静寂を破るものではなく、
静寂と共に暮らしている。