OP/抽象的なもの。
マイカは頭の中で考える。
「天使と悪魔」について。仕事の中では様々な人々に出会うことになる。仕事だけに限らず、生きていれば様々な人々に出会うことになる。そこで大切なことは相手が「天使」なのか「悪魔」なのかを瞬時に見抜く力だ。「天使」とは自分にとって良い情報をもたらしてくれる人のことであり、「悪魔」とはその反対の人のことである。マイカは目の前に座っている男について考えた。この男は私にとって「天使」だろうか?それとも「悪魔」だろうか?と。一番悪いことはその判断もしないうちに相手のことを勝手に「天使」であるか「悪魔」であるかを決めつけてしまうことだ。その人が何を考えて生きているかなんてことは、その人とちゃんと会話をしなければわかるものではない。でもちゃんと会話をするということが、これがなかな難しいことなのだ。マイカは頭の中で考える。今、目の前にいる男は私にとってはどちらなのだろうか?と。「天使」か「悪魔」か?それは話してみなければわからない。男の言葉の中にある心を感じることができなければわからない。そしてマイカはいつも最初に行う質問を男の目を見て投げかける。
「現在解決しなければならない問題の中で、もっとも重要なものは何ですか?」
男はマイカの質問を何度か口の中で繰り返す。
「解決しなければならない問題、もっとも重要なもの」
「解決しなければならない問題、もっとも重要なもの」
「解決しなければならない問題、もっとも重要なもの」
マイカは首を横にちょっと傾ける。マイカの肩まで伸びたまっすぐな髪が肩の上で一瞬踊る。マイカの髪は窓から差し込む光を受けて微かにオレンジ色に輝く。男はその色の変化に気がついただろうか?目の前にいる男がマイカにとって大切な男なのだったら、マイカはそのことを男に尋ねたかもしれない。猫のようにちょっと甘えた感じで男の目を見て問いかけたかもしれない。でもマイカの目の前にいる男はマイカにとっては一人の顧客に過ぎない。もちろん愛すべき顧客である。愛がなければ仕事はできない。
「難しい質問でしょうか?」
とマイカは愛情をこめて質問する。
「難しいというか抽象的な感じがしますね」
と男はいう。
「では具体的に行きましょう。今、あなたが抱えている問題を三つ列挙してください」
男は一瞬目をつむり、そしてしばらく考えて、目をつむったまま応える。
「プロジェクトの進捗が思わしくないこと、顧客の要求事項が見えないこと、収支管理が計画通りにいかないこと」
マイカはニッコリと微笑む。
「その回答はとても抽象的な感じがしますね」
とマイカは男の目をまっすぐに見て言う。男は唇を少し横に曲げて苦笑いする。自分の言葉をそのまま使われたことがおもしろくないと男は思っている。そのことをマイカは心の中で考える。どうしてあなたの言葉を私が抽象的に考えたのかを私はこれからあなたに説明してあげましょう。とマイカは心の中で思う。
「プロジェクトの進捗が思わしくないということは、プロジェクトが計画通り進行していないということですね?おそらくその理由はプロジェクトのゴールであるところの顧客の要求事項が把握できていないために、今現在、どの程度までプロジェクトが進んでいるかを把握できていないためでしょう。また収支管理が計画通り進んでいない理由は、プロジェクトのゴールが見えていないために、どれだけのボリュームの仕事があり、その仕事を行うのにどれだけの人的コストと物的コストがかかるのかが正確に計画できていないからではないでしょうか。つまりあなたがおっしゃった三つの問題はすべて一つの問題に集約されることになります。プロジェクトのゴールを誰も把握していないことじゃないでしょうか」
「プロジェクトのゴールはわかっているつもりだ」
と男はいう。マイカは男の言葉を頭の片隅にセットして考える。
その通り。プロジェクトのゴールはわかってなければならない。誰が?もちろんあなた自身がよ。
「新しいコミュニケーション手段となる画期的な通信ネットワークソフトを開発すること。それがゴールだ」
「何をもって新しいと定義しますか?」
男はまた目をつむって考える。けれども男の頭には何も答えが浮かんでこない。
「何をもって画期的であると定義しますか?」
とマイカはたたみかけるように男に質問する。
男は目をつむったままである。何か新しい考えがその目の奥で生まれようとしているようにはマイカには思えない。マイカは深呼吸をし、ゆっくりと微笑む。そういう一つ一つの仕草に大切な意味があるのだと思う。女は好きな人の前では自然にそうした仕草をすることができる。でも好きでもない男の前ではそうした仕草を行うことは難しい。でもこれは私にとっては大切な仕事なのだ、とマイカは思う。私は彼に対して愛情を持って語りかけることができる。そうした感情の流れはちゃんと相手に伝わるものだ。それさえちゃんと伝われば、私の言葉はあなたに伝わる。
「そういうのを抽象的なものというのです。まずそこからいっしょに考えましょう」
とマイカは言って持ってきた大きな白い紙を広げる。
白い紙の中心には丸い円が一つ書いてある。
マイカはポケットの中から太字のマジックを取り出す。
「ここにあなたが問題だと考えていることを書いていってください。できるだけ具体的に書いていってください。私もいっしょにお手伝いします」