OP/アイコトバ
そこではいつでも熱帯の匂いがする。
それはジャングルの香りだ。様々な木々とフルーツと動物たちの匂いが幾重にも重なった匂い。僕はこのビルの中に入ると一瞬自分が今どこにいるのかを忘れてしまう。頭の中に見たことのない風景が浮かぶ。緑のジャングルの中を蛇のように身をくねらせて流れる川。川の水は土の色をしていてけっしてきれいなものではない。だけどその色は何故だか僕をほっとさせてくれる。その水の中には芳醇な命が含まれている。そしてそれぞれの命はお互いに相手の命を狙ったり、素通りしたり、愛し合ったりしている。それはとても自然なことで、その水の中で起こっていることの全てを理解することができれば、この世界の全てのことを知ることと同じことを意味しているのではないかと思う。
「あ、またあっちに行ってるよ」
マイカの声が右側のジャングルの中から聞こえる。
「ほっとけ。いつもの昼の夢だ。今にはっと眼が覚めて、『今、何時だ?』とか言い出すだろう」
サイゾウの声が左側のジャングルの中から聞こえる。
「今、何時だ?」
と僕はいう。
「13時」
という声が左右のジャングルから聞こえたかと思うと、ジャングルの風景は一瞬にして消えてしまう。
マイカとサイゾウと並んで歩いている自分に気がつく。
「また幻覚?」とマイカがいう。
「なんかヤバイ薬でもやってるんだろ?お前」とサイゾウがいう。
「コドモの頃からこうなんだ。突然ふっとあっちの世界にいっちゃうんだよ」
「一度お医者さんに診てもらったら?」
「何度も診てもらったよ。いつでもどこも悪いところはないっていわれるだけ」
「精神科はいったのか?」とサイゾウがいう。
「心療内科に精神科に脳神経外科。どこに行っても同じだよ。別に日常生活に支障をきたすわけじゃないからいいじゃないか」
「でも満月の夜に体中から毛が生えてきたり、突然誰かの血が吸いたくなったりするかもよ」
「それだったら大丈夫。経験済みだから」
といって僕はマイカの顔を見て笑う。
そんなたわいのない話をしながら、僕たちはそのビルに入る。そしてエレベータに乗る。マイカは23階で降り、サイゾウは26階で降りる。それぞれ降りる時に軽く手を上げて、
「あとで飲みましょう」
「あとで飲もうな」
といって降りていく。
僕が乗ったエレベータはさらに上に昇って行き30階で停止する。エレベータの中には僕の他には誰もいないのだけど、僕は「あとで飲もう」といってエレベータを降りる。
それは僕たちのアイコトバだった。この言葉を言って仕事に出かけると、不思議と全てのことがうまくいくのだ。
言葉には目には見えない力がある。